エネルギー・環境教育セミナー 報告書


テーマ: エネルギー・環境教育セミナー
開催日時:

平成25年11月19日(火) 14:00 〜 17:00

場  所: 福井商工会議所ビル 地下コンベンションホール
主  催: 経済産業省資源エネルギー庁
主  管: 福井県環境・エネルギー懇話会
公益財団法人 日本科学技術振興財団
後  援: 福井県教育委員会
特別協力: 福井市
福井市教育委員会
■ 講演

演 題

「 原子力発電所事故発生による様々な課題
〜 学校運営諸問題を中心に 〜 」

講 師

いわき明星大学科学技術学部 特任教授 石川 哲夫 氏

(要旨)

1.東日本大震災直後の状況

 まず、どのような現状だったかという事実をお話ししたいと思います。

 東京電力福島第一原子力発電所と私たちのいわき市は、45kmぐらい離れています。その間に第二原子力発電所と東京電力の広野火力発電所があります。私たちは3.11の7〜8年前からずっと第二原子力発電所の方に行って、PR館で子供たちに概要を捉えさせて、それから第一原発に行っていろいろな施設を見たり、今回水素爆発をした1号炉の脇にバスを止めて、そこでいろいろな説明を聞いたりしていました。子供たちは、エネルギーと原子力について小学生も中学生も結構勉強をしていました。ただ、学校間で差も出ていました。

 これは地震の次の日の新聞です。地元の新聞は二つあるのですが、どちらも原発よりは津波のニュースが中心でした。ちょうどその日は午前中が中学校の卒業式で、私も来賓で呼ばれていたところに、マグニチュード9.0というすごい揺れがきました。子供たちは下校途中でした。その地域は防犯的に良くないところで、先生方が付いてある程度の所まで集団下校を毎日やっていました。そんな関係で「子供をとにかく校庭に全部戻しなさい」と教員に全部電話を入れて、子供たちは全部戻ってきました。ですから、子供には直接被害はありませんでした。

 これは平成23年の7月末の時点のいわき市の被害状況です。一番大変だったのは水道です。水が出ないというのは本当に大変でした。放射線ですが、一番高い所で23.72μSv、これは山手の方です。津波の被害では、道路が壊れて、海水浴場のすぐ脇の豊間中学校では鉄骨が曲がってしまいました。今でもこの豊間中学校の生徒は小学校の中に入って授業をしています。永崎小学校には自衛隊も入って、今完全に復旧しました。

 同じく海岸線沿いの原子力発電所に近い四倉中学校は午前中に卒業式を行っていました。教室に土砂が入って、液状化でしょうか、浄化槽が顔を出してしまいました。女性の校長先生によりますと、避難をしたときには腰まで浸かって逃げた、後で校庭に死体があったりして、大変な状況だったといいます。

 震災の次の日に1号機が水素爆発をして、それを職員たち全員が職員室でテレビを見ていました。1日おいて、今度は3号機が同じように爆発をしました。映像的に煙が高く上がったので、一気に市民の多くが避難をしました。それから、教育委員会から指示が流れました。今、自宅にいる者は自宅待機、通勤途中の者は近くのコンクリートの建物の中に入りなさいという通知が流れたということですが、私は後から教頭に聞きました。

 そのときに体育館には津波の関係で、被災者が500人ぐらい入っていました。私の学校はエネルギー教育実践校でしたので、学校に「はかるくん」のような簡易測定器が3台ばかりありました。それですぐに係の先生に計らせました。私の所は45〜50km離れているのですが、1.7μSvという数値でした。事故以前は0.05μSv/hでした。福島第一原子力発電所に子供を連れていって計って吉田所長さんに嫌な顔をされたこともありましたが、子供たちは「あれ、原発は0.03μSvだ。学校より低いんだ」と言っていました。

 食料が足りなくなるかなとコンビニに寄ったら、全部売り切れて、酒だけが残っていました。ガソリンスタンドは営業していなくて買えなくなりました。従業員もいないという状況で、一番困ったのはガソリンです。ガソリンは茨城までは来るのですが、福島には放射線が怖いということで入ってきません。

 3月14日に教員たちは、飛行機で北海道に逃げたり、自家用車で親戚を頼って関東圏に行ったりして、避難しました。そのときに私からは、落ち着いたら行き先を必ず電話を入れることと、子供の名簿を持って避難するように話しました。私たちの市町村は個人情報保護ということで子供の名簿には本人の名前と保護者の名前と会社名、あとは自宅の電話番号ぐらいしか記載されていないのですが、私は市に逆らって両親の携帯番号、勤務先の番号、そして自宅の番号を記載した名簿を作っていました。これが効を奏したのです。

 2週間ぐらい過ぎて、県教委、市教委からは人事凍結の通知が入りました。3月でしたので、一般退職者はそのまま退職させろと。ただし、校長は退職しない。そのまま無期で延期するとことになりました。しかし、特に被災地の原発地域の校長がもう辞めさせてもらう、県の言うことは聞けないということで2名ほど拒否をしました。

 新採用は採用の通知も出していましたので、4月1日に学校に入ることになりました。それで当分頑張ってもらうしかないという判断でした。ただ、原発に被災した人たちがアパートに入って、ほとんどのアパートが満杯で、どこも空いていないという状態で、新採用の人のアパートを確保するのが容易ではありませんでした。

2.東日本震災3週間後 〜

 そして3週間が過ぎました。水道が出なかったのが一番効きました。それは、逃げた水道の職人が戻ってこないからです。私のところに教育長が来て「資材はあるんだ」と言っていました。私も大体落ち着いたなと思ってから、市職員の方に任せて1回家に帰りました。家の中はガラスから何から割れて、がちゃがちゃです。それを直したのは1年ぐらい過ぎてからでした。家に帰って、まずは水を確保ということで、家内を連れて毎日、赤いポリタンに10本ぐらい、水をくみに行くのです。学校では500人の被災者がプールの水をくんで、それを20個くらい並べてトイレに使っていました。それで、あっという間に大きいプールの水がなくなってしまいました。

 だんだん生活に慣れてくると、避難者の中にも教室に勝手に入ってテレビを持ち出して、ゲーム機をつないだり、全国から入ってきた物資を自分の車に積んでしまう者が出てきます。先生方は逃げていますので、校長と教頭の2人ではそこまで目が回らないという状況でした。

 何でも聞いてきます。赤ちゃんがいるからポットを貸してくれとか、粉ミルクがないのかとか。学校にあったポットは全部なくなってしまいました。もう一つは、学校の中のトイレが汚くて、流していないし、もうどうしようもないのです。教育委員会に対して各学校、とにかくトイレを何とかしてほしいと言ったのですが、市教委だってどうしようもありません。教育委員会と校長会がけんかのような状態でした。

 市と市教委は、「とにかく、いわき市は大丈夫だ」とアピールするのです。それで突貫工事で学校の見える所だけ直して、入学式はやると言うのです。水道も徐々に復帰しました。特に教育委員会からは、とにかく平年どおり始めるので、教職員に職務復帰命令をかけて、全国に散らばっている教員を集めてくれということでした。

 私の学校は最初に指示をして、全部どこにいるかつかんでいましたから、戻すことができました。できない学校もありました。もう福島には戻らないと言って、若い女の先生などそのまま辞めた人も大勢いました。子供の所在把握も指示しなさいと言われたのですが、教育委員会に言われたとおりの個人情報を優先した名簿を作っていた学校は連絡が取れないのです。

 また、物資、特にガソリンが入ってきません。私もガソリンのメーターを気にしながら毎日学校へ通っていました。ただ、若い先生はツイッターなどのSNSを駆使して、ガソリンの情報を集めていましたが、ガソリンが入るというガソリンスタンドには数キロメートル車が並ぶので、自分の番に来るのは3〜4時間後で、6時間ぐらい並んだという人が大勢いました。食料も、勤務時間なので、立場上、市民から後ろ指を指されるようなことのないようにと、教育委員会から言ってきます。しかし、先生方も食料がないので、校長としては、とにかく先生と分からないような感じで買いに行っていいよ、処罰は私が受けるからと言っていました。でも、学校の先生はどう変装しても、職業的な格好や話している内容で何となく分かってしまうようです。

 4月6日から通常どおり、入学式、始業式を行うという通知が流れました。全市内の教員から「え?」という声が上がりました。学校は壊れていますし、被災している人がいっぱいいるし、水も出ないわけです。とにかく水道工事だけはやるといって市も頑張って、118校、駄目だった所は自衛隊が入って水を確保できました。トイレも仮設を作ってスタートできるようにしました。

 今度は子供たちへの連絡です。学校には普通、電話が2〜3本しかありません。保護者に電話をすると、1カ月ぶりなものですから、いろいろなことを聞いてくるので、1クラス全員の子供に流すのに、2〜3時間はかかってしまいます。それで携帯電話を使い始めました。携帯電話も3〜4時間かかります。「この電話代はどうしてくれるんだ」という教員も出てきます。保護者はとにかく放射線を気にしていました。

 入学式2日前に全職員で掃除をして、1年生が不安がらないように入学式を迎えようと準備を始めました。体育館は使えないので、市教委からは「卒業式は行わない」という通知が流れました。4月6日の入学式も廊下や空いている教室を使って実施しました。

 中学校は午後から入学式でしたので、私は始業式を短い時間でやって、すぐに中学校へ入学する親子を学校に集めて学校で卒業式をやりました。市はあちこちに散らばっている避難者を隣の学校の1カ所に集めて管理をしたかったので、「隣の学校にはいろいろと物資が来ているから」と教頭先生に働き掛けて出ていっていただいて、空いた体育館を全職員で掃除をして、わずか1時間くらいでパタパタと「卒業を祝う会」を開いたわけです。

 そのとき、登校してきた新中学1年生の子供たちが、「先生、原発は5重の壁でも守れなかったね」という話や、ペレットも学習していましたので、「あんなものであんな大きな事故になるのだからウランってすごいエネルギーがあるんだね」という話もしていました。あの当時、ヨウ素が出ているとか、ストロンチウムが出ているといろいろなニュースが流れていたので、「そんな元素が出るのは、もうあの釜は壊れているんじゃないの」と小学生たちは言っていました。

 それから1カ月半ぐらいが過ぎて、給食が始まりました。給食センターも全部壊れましたので、既製品の真空パックに入ったものを使って部分給食と言っていました。そこに牛乳が付いたのですが、これが大騒ぎのもとになります。教育委員会が規制値以下なので心配ないというので、学校では給食を勧めました。ですが保護者の中に、「うちの子供だけが食べないとなると、みんなから陰湿な扱いをされるから全部止めなさい」と言ってくる人がいました。それで、一応自由選択という形にしました。

 学校が始まると、各学校のPTA会長、校長が集まる会議がありました。そのときにPTA会長さんたちは、「とにかく線量を隠すな。それをインターネットに発表しろ」と言われました。実際に測定器もないのに数値を発表しようもありません。保護者たちは、国に対しても県に対しても、東京電力に対しても情報不信で、学校にもそれをぶつけてくるという感じでした。

 また、原発立地町村の学校は全部閉鎖されましたので、そこの教員の行き場がなくなりました。その教員たちは国立高専などいろいろな建物の中に詰めて、各学校に転入した子供たちの所を回って歩いて、慰めて、「心配しないでね」と声を掛けるわけです。子供たちがやっとその学校に慣れてきたころなのに、前の学校の先生が来ると泣くのです。そうすると、受け入れ側の学校は、寝た子を起こすようなものだとあまり歓迎しませんでしたが、向こうの先生方も立場上働かないわけにはいかなかったのです。

 校庭の線量が0.23μSv/h未満ならば、1時間だけは外で体育をやりましょうと市で決めました。ですが、保護者の不安がっている方々は、それも反対だというので、ずっと部屋の中で、体育館でという形もありました。校長先生は一応1時間以内であれば外でやりましょう、休憩は外に出さないようにしましょうと決めましたが、特に低学年の女の先生が出さないのです。学校は統率が取れなくなってばらばらです。

 あと、夏に向かっても、長袖、長ズボン、マスクのままの子供が見られました。マスクをしている子は、運動量も非常に少なかったように思います。親が見ていない所ではマスクを外している子供がいました。

 さらに、「僕もみんなと同じ給食を食べたい」と泣き出した子供もいました。いわき市の北部の小学校です。完全給食に切り替えられても学校給食を食べず、母親の手作り弁当です。母親の弁当は大体決まっています。卵焼きとウインナーが入っているものです。最初は喜んでいましたが、それがマンネリになってくると子供も嫌気がさしてきます。みんなは「やっぱり学校の給食はうまいよな」と言ってカレーを食べているわけです。「僕も食べたい」と言うと、子供たちは「食べなよ」とどんどん分けます。担任の先生は、親から苦情がくるかもしれないとはらはらしている、実際にあった話です。

 生活科や理科の授業が始まって、土を買わないといけないということで、県外から土を買うとそちらの方が放射線が高かったと。それは化成肥料が入って売っているものですから、カリウムが検出されるわけです。あとは、ヒマワリをいっぱい植えましたが、効果がないということが分かりました。

 7月の夏休み直前の中学校の授業参観で、もう暑くて暑くてダラダラと授業をしているとある母親が見かねて少し窓を開けました。別の母親が後ろから付いてきてバタバタ閉めるのです。先生は何も言えなくて、目だけ追って汗をダラダラ流す、そういう悲惨な面もありました。

 校庭の測定も毎日校長と教頭がやっていました。子供たちが窓から見ているので、うちの学校はやっていないとなると保護者からいろいろ言われます。あと、教室の窓際にペットボトルを並べている学校がありました。東京からいろいろな学者が入って、中性子の話などをするわけです。その部分的な言葉が頭に残っていて、水で反射して防げるのだということで保護者から言われてペットボトルを並べているのです。これは教育が必要だと思いました。

 土の舞うほこりを気にして授業を受けないというのもありました。これはいわき市で一番原発に近い学校です。当初、どのくらい放射線が土に影響しているのか分からないときに、1m20も掘りました。そして遮水シートを敷いて全部熱圧着をしたので、プール状態です。雨が降ったときに校長先生が真ん中に立つとフワフワするということで、これは今でも続いています。今は50〜60cmの上の土をさっと交換すればいいということが分かったのですが、このころは分からなかったので、お金もものすごくかかったと教育委員会が言っていました。

 送り迎えについてもいろいろな問題がありました。最近やっと送り迎えがなくなってきました。また、地元の米を検査してベクレル数値を計ると基準値よりかなり低いのですが、やはり食べられないわけです。

 プールの水も問題になりました。検査して大丈夫だと言っても、入らない子供は入らないのです。豊間小学校がすごく数値が高かったのですが、どんなに掃除をしても下がらないということで、コンクリートのプールの周りに鉄板を敷くと、ピタッと止まりました。やはり放射線の基礎学習にあるように、鉄板やコンクリートを敷けば止まるのです。ただ、レンタル料が1カ月1000万円かかるということです。

 ただ、被災地の大熊にある学校で「もう原発は懲りて要らないと思う人」と聞くと、3人でした。ほとんどの子供は原子力は必要だと思っているようです。要らないというのはお年寄りが多くて、中学生たちは日本の将来や自分の将来を考えると、そういう答えになるのかなという感じがしました。

 夏の教員免許更新では、放射線関係の講習に参加者の希望人数が多くなっています。掛布さんと同じように、私も各学校を回って説明をしているところです。他の県と違うのは、福島に落ちたセシウム137から出るβ線を実際に見せられることです。霧箱ではγ線は見えませんが、実際に計ると0.2か0.3ぐらいだという学習をしています。

3.現在いわき市が抱える課題

 最後に、いわき市が今抱えている問題です。第1に、風評被害が課題になっています。第2に、住宅が満杯です。被災した人たちが入っていて、転勤者のアパートがないという状況になっています。第3に、病院にかかりにくいです。病院に行くと、歯医者などは3カ月後に来てくださいと言われます。人口が増えて、行政サービスや医療サービスが低下しているのが事実です。第4に、道路が混んでいます。第5に、市民がだんだん被災者に対して不満の声を漏らすようになっています。第6に、教育委員会が放射線教育を進めようとしていますが、マンネリ化してきて、だんだん関心が薄らいできている現状です。最後に、仮設住宅を抱えているところは、教室が足りなくて、特別教室も使えなくて、教育の質の低下につながっています。

 ただし、今、全体的には明るい生活をしています。テレビでよく放送されているような暗い状況ではありません。全体として見ると、市民、県民は将来に夢を持って、前へ進んでいます。

Copyright(c) The Society for Environment & Energy in Fukui Prefecture All Rights Reserved.